お役立ちコラム

サクラサイトに振込先口座の提供を行っている会社及びその代取の損害賠償責任

本判決では、サクラサイトで被害にあった原告が、被害金の送金先口座の名義会社及びその各社代表者に対して被害金及び弁護士費用相当額を連帯して支払うよう求めた事案である。

 

本判決は、サクラサイト運営者につき詐欺による不法行為が成立することを前提として、被告らについては、振込詐欺の「出し子」に関する報道が多く行われている中、当該サイトの実体をよく解任しないまま、犯罪収益移転防止法で罰則をもって禁止されている第三者に対して有償で口座を貸し出す行為をしている。

 

・その行為は、動機・経緯自体が怪しいこと、口座に振り込まれた現金を引き出して、これを交付するという業務自体不自然であること

・口座に振り込まれた現金を引き出してこれを交付するという業務自体不自然であること

・現金の引渡し方法も振込詐欺を容易に想起されるものこと

・被告A社及びA1については、旧口座が凍結された直後に新口座を提供していたこと

・詐欺の出し子にあたることを十分認識していたことの推認の根拠

 

以上から共同不法行為とされたものである。しかし、損害の範囲については、被告らには、上記の事実をもってしても共謀が認定できないとされており、個別的に「各名義の口座に送金された範囲についてのみ個別に不法行為が個別に発生する」と個別に不法行為の成立をも認定していることから、従来の解釈を変更するものではないと思われる。

公務員は誰のために

公務員は誰のために―6月25日付の朝日新聞の問いである。

 

たしかに日本では都市部以外では少ないとはいえない公務員は誰のために働いているのか、当然だが、国民のため、公共の福祉のための全体の奉仕者でなければならない、というある意味のミッション・ステートメントがある。

 

政治家がかかげる公約があるように、公務員の公約は国民全体の利益のために働きますよというのがミッション・ステートメントなのである。

 

しかし、弁護士や行政書士のように官庁との調整をするエージェントをしていると、公務員はだれのために働いているのだろう、という朝日新聞の問いは意外と深いものがあると思う。

例えばある法律要件を満たさず行政許可が出ないとされたが、疎明資料が通達で決められているためであって、他の資料からでも法律要件を満たしていると審査請求人が主張した場合、原行政庁は、効率性の観点から資料を限定していると述べるものの、審査請求庁が要件は満たされているとして処分を取り消すこともある。国民の権利や営業の自由よりも、行政の効率性が大事なのである。

 

また、失踪した夫と住民票がいないため、課税証明書を提出できない場合、保育料をマックスで請求するのが愛知県瀬戸市であるが、失踪するような夫にロクな所得などあるはずもない。ルール自体も不合理であるし、しかもなぜ外行政庁から職権で課税証明書を出さないのか。結局、各行政庁と押し問答したものの「行政の効率性」の観点から課税証明書を得ることはできず、裁判所の手続を通して入手して、保育料は最低額となったがまともに考えて非常識だと思わないのか。

 

天皇陛下の叙勲。年齢を重ねると名誉欲を強まると心理学ではいわれる。それが叙勲である。新聞の叙勲を受けた者をみると調停委員のオンパレードである(もちろんそれまでのキャリアも考慮される。)非常勤の公務員の場合調停委員をやるのが早道だがそのためにあっ旋能力がない人間が、調停委員をやるという構図も辟易とする。私の祖父も叙勲をもらっているが、従軍と国鉄に長く務めたためであり、調停委員を務めたわけではないが彼が調停委員に向いているかというと、一方的に意見を押し付けるタイプであるので、向いていないと思う。公権力行使公務員にそういう人、それはその人の私益や業界団体から叙勲者を出したという利益もあるだろう。

朝日新聞の論旨は要するに、安倍首相のご意向が文部科学大臣に手続を促し、結果、弁護士からいわせれば法律による行政の原理、あるいは、法の支配が害されたということになる。

 

たしかに、公務員といえども、完全に公平、中立であることはできない。偏っている人もかなりいるのではないか。

 

しかしながら、報道ステーションの古館キャスターなどをあれだけ偏向している、と批判した公務員だ。さぞかし「公平」で「中立」なのであろうかというと、もはや客観的な問題ではなく、「公平」や「中立」であるということ自体に対する信頼が「忖度」というもので、大きく国民の信頼を失っていること自体が問題で、これでは政治不信ならぬ公務員不信にならざるを得ない。特に加計学園の問題視されている理事長は自民党員で職域支部長をしていたという報道もある。読売新聞の報道もあったが違法でもない行為でしかも事務次官を退任しているものの報道としては単なるプライバシーの侵害や名誉毀損になるのではないか、麻生元総理も毎日、「クラブ」や「バー」通いを指摘され辞任につながったのであるから、適法な範疇であれば同じ次元である。

 

特に、問題とされるのは、「特別権力関係」や「裁量」で説明される部分のあまりの大きさだ。つまり、公務員は法律による行政の原理や法の支配によって行動しているのではなく、実際は広範な裁量によって「ご意向を忖度する行政」や「人による支配」を行ってしまっているのではないか。

 

昔、名古屋家庭裁判所の判事で、現在は千葉地方裁判所判事の鈴木千恵子は、「こどもの幸せは裁判官が決めます」と述べたが、思い上がりも甚だしい。家事事件手続法は、声なき声に泣いてきたこどもたちを救済するため子の意向を織り込む立法趣旨もあり、広範な裁量は縛られるようになった。結局、彼女の別の事件も当代理人が後始末をしたが重要な事実を見落としており、家裁ではなく名古屋地方裁判所が当代理人の論旨を容れてこどもを救済した。

 

しかし、公務員全体が委縮しているのは、かつての小沢政治と似ている。小沢政治が徹底的に批判された理由は、小沢氏は何もいっていないのに、忖度するように求めるわけである。この結果、小沢氏本人の発信がないまま「小沢氏の意向」が独り歩きし、それが不合理なものもあるが真相はやぶの中である。もっとも、どこの世界にも権力者にすりよって、権力者はこういっているなどと目立ちたがるものがいるものだ。その反対に権力者に御注進に及び覚えめでたくなるのはいつの時代も変わらない。今般のプサン領事の更迭劇も、「私的な飲み会で日韓関係を考えれば対話のチャンネルを残すため領事はいてもよいのでは」という意見を述べただけで更迭されたわけである。たしかに本音をぶつけ合う社会はいきづらいが、いいたいことをいえない社会もいきづらい。

 

 

中には伝聞もあるだろうし、対応もヒステリックで、いつかの小沢政治に安倍政権は似てきた。外務省秘密漏えい事件のように、前川前文部科学事務次官が総理のご意向文書で行政が捻じ曲げられたと述べると、読売新聞が前川氏の「出会い喫茶」通いを大々的に報道するなど論点ずらしは権力者の得意技である。しかし、将棋や囲碁と同じく筋から外れたことを議論しても仕方ない。

 

朝日新聞の社説は内閣人事局の設置により、高級官僚600人の人事は総理次第になったことが大きいという。片山元総務大臣は、今の霞が関は物いえば唇寒しの状況と指摘している。

最近、弁護士会でも同じようなことを感じた。元来、弁護士会は弁護士自治を守っているくらいではあるが、実際は権力や名誉が大好きなように思えてならない。そのため、裁判所からの意向を忖度したような言動も珍しくない。なぜなら、弁護士会は、裁判所発の仕事も請け負っているからであり、裁判所に物言えば唇寒し、といった状況であるのではないか。弁護士会と裁判所は仕事を出し、請け負うという関係もあるので、相互のチェックが損なわれていることの弊害は大きい。そして、裁判所の意向を忖度する弁護士会が各弁護士についての監督権を持っているのも問題のように思われる。もはや、自治といっても第三者委員会など「公平」「中立」なものに弁護士会も忖度を排斥するために動くべきではないか。

 

結局、人間、最後は好き嫌いで決める。決めていると疑われても仕方がない面もある。変化に敏感で状況におうじて方向を決める弁護士もいれば、継続ばかりを重んじ裁判所からの忖度を旨に会務の安定性をさせようとする弁護士、その中間的な弁護士などの適切な役割分担によって決められる。

 

僭越ながら、東京第二弁護士会などは副委員長などは若手ばかりで勢いがありうらやましい。だが、名古屋の場合は主流派が裁判所からの忖度と卑下している面(官尊民卑)の発想が強すぎるのではないか。現在の弁護士会長は「女性会員に対する業務妨害をなくしたい」というが、男性会員は業務妨害を受けても良いのであろうか。どこの組織であっても公務者というのは全体の奉仕者でなければならず、池田桂子弁護士会長のように女性会員の奉仕者だけであればその仕事ぶりは会員全体でチェックする必要もあるだろう。

 

野党や健全な弁護士会によるチェックが行われなくなり、司法府も均衡と抑制が機能不全に陥っており、そのため公務員が中立性を失い、結果、国民の裁判を受ける権利が失われる弊害は極めて大きい。

小林麻央さんを悼う

BBCニュースの報道によると、小林麻央さんが亡くなられた。34歳であった。

 

私は、現在、多くの報道番組がそのスタイルをまねるニュースZEROは論陣を張らないという点で評価は大変低い。

 

その番組の中で、20代前半の小林さんがキャスター席に座ることも何かの決意があって「伝えているのか」と当時から疑問に思っていた。

 

ただ,彼女はキャスターを究めたいというわけではなく、人と人をつなげる太陽のような人であったかもしれない。

 

女性の厄年は男性よりも早いから、若すぎると思いつつも多くの女性に注意が必要な年齢、疲れが出やすい時期でもある。

 

さて、小林麻央さんの闘病ブログ。公共性があるかといわれれば疑問符もつく。BBCは個人的なことがらを語るのを避けようとする日本社会で小林麻央さんのブログは画期的とする。

 

当日のニュースZEROは、小林さんのかっての席に花束を置いたものの、あまり裏話を伝えることなく、冷静に報道した。他方、一部で炎上騒ぎを起こしたのが同じニュースZEROに週に何回か出演しているタレントであった。涙をみせながら「悔しいです」と話したのだった。

 

今日の産経新聞の報道によると、韓国人の生き方を左右するのは「ハン」(恨み)なのだという。これは「昇華」行動といって一時のカンフル剤には良いものだ。ハンは、自分の夢や希望、理想が実現しない現状に対する不満、あるいはやるせない気持ちのことなのだという。しかし、すみなすものは心なりけりの我が国の社会通念とは異なるのではないか。

 

あるタレントが「家族を失ったようで悔しいです」とわざわざ記者会見まで開いて述べたことには違和感もあり、社会からの批判もある。そもそもキャスターの自負があるのであれば言論は自分のフィールドで語るべきだ。

 

麻央さんは,生前,BBCに対して、何かの罰で病気になったわけでもないのに、私は自分自身を責め、それまでと同じように生活できないことに、失格の烙印を押し、苦しみの影に隠れ続けていると心境を述べた。そして、麻央さんの病状が回復困難なものと世間に知られるようになるにつれて日向に出る決心をしたのだと述べた。

 

それは、やはり彼女が自分自身と見つめ合い、そしてこどもたちのために何ができるかを考え導き出した結論ではないか。そこに心の持ちようの余裕と慈愛、深い愛情はあっても「ハン」はない。

 

ガンの闘病はうつ病になる人も多い闘いである。そして、外科的手術など根治的手術を目指さず延命的なペインコントロールをしていく道を選択したのだろうと思われた以上、このような日が来るのは、「日本の空気」だったといえるし、現実の死に直面して本来一番悔しいのは愛する夫やこどもたちと離れる麻央さん、本人ではないだろうか。しかし、彼女はBBCに「ハン」はない、と述べたのだ。心穏やかにお疲れ様でした、とお悔やみ申し上げたい。

共謀罪の成立と詰め切れない感覚

共謀罪が成立した。

 

もっとも、弁護士をしている自分でもいったい処罰の外延がどこまで広がるのかわからない。

すこしミスリードもあるが朝日新聞で高山佳奈子教授が共謀共同正犯と併せ技をするとさらに外延が広がるかも、ともいう。

 

整理すると処罰される行為は277の行為なのらしいが、中には著作権法違反も含まれるとのことらしい。

料理でも「仕込み」をするように、行為が「準備行為」と回顧的に位置づけられることはいつでもあり得るだろう。

 

共謀罪は、犯意を処罰するものなので、10年懲役のものは5年、その他は2年になるとのことなそうである。

 

国民もテロリスト、暴力団など組織的犯罪集団のみにあてはめられるもの、と本気で思っている人は少ないだろう。

すでに環境団体などによる抗議活動は、共謀罪の準備行為に該当すると考えてよさそうである。

 

共謀罪は英米法が母法であり、日本の刑法は大陸法が母法である。大陸法に英米法をのせるのであるから、運用も相当混乱するのではないか、と思われる。

 

産経、朝日、中日は日本の刑法が実行主義をとったにもかかわらず、共謀罪で主観主義刑法となる転換点を迎えたということになる、と書いた。

みな一大転換点だという認識では一致している。

法務大臣も主観の認定が必要、と答弁されることから、今後は、自白強要、黙秘権の貫徹、間接事実から「勝手」に分析される意思といった点が問題になるだろう。

 

このコラムで指摘しているように朝日新聞では元判事の木谷昭氏が令状審査など、むしろ刑訴法のアプローチから裁判所の役割が大きくなる、というがあまり期待はできないだろう。

 

たしかに、テロは未然に防ぐというニーズが出てきたのであって、一般市民刑法における原理があてはまらない場面があることは否定できないところである。予防は処罰の早期化が必要であるが、果たしてテロリズムが少ない日本で、「テロ等準備罪」のはじめての立件は何であろうか。少年たちの集団万引きで共謀段階から離脱した少年が捕まったときなどが観念されるが、テロの準備には程遠い。海外におぼれることなく熟成した国家に即した法整備をするべきで、結局、政権に批判するデモも「組織犯罪」になる可能性が高いであろう。

 

昔、息苦しさを感じたとき「他人に迷惑をかけなければすべて自由」というミルの危害原理に励まされたものだが、結局、「忖度」「空気」が支配し、それを守れない人は「準備行為」をでっちあげられて、逮捕される、といったところではないだろうか。準備行為なんて、一例を挙げればハサミを買うだけでも準備行為なのだから。後は長期の勾留で自白を強要しておしまい、といったところではないだろうか。今後は、1億総前科社会と考えて黙秘権を授業で教えて、違法な捜査、忖度捜査に対抗する知恵も、教養として必要になる世の中になってしまうのだろう。もっとリベラルにやれないものだろうか。

名古屋、魅力ある街へ。

名古屋市長選の投開票が行われたが、任期満了に伴う選挙ということもあり、特段、「争点」もなく、河村か、反河村かという「詰まらない」争点で選挙が行われ、自民党から共産党まで支援を受けた次点候補にダブルスコアをつけて圧勝した。

 

自嘲気味にいうと「弁護士」は落選すれば「弁護士」に戻ればよいだけであるから立候補もお気楽だ。

 

だが、中日新聞は、「市民の目には既得権側の代弁に映り、市長交代の必要性を感じられなかった」と指摘した。そのとおりだろう。

 

安倍政権と民主党の失政から聴かれなくなった言葉がある。それが「行政改革」だ。民主党は、行政改革をして無駄を削り予算の再分配をすることを理想としていたが、結局、その理想を体現しているのは、市長の報酬を削減し、市議の報酬を削減等しようとした河村氏だったと評価されてもいいのかもしれない。それだけ、市議の報酬の増額の経過に市民の批判が強いことを、自民党から共産党まで自覚するべきではないのだろうか。しかし、次点候補も自民党から共産党まで支援を受けるとは鵺のようでありいかにも節操がない。中央政界ではあり得ない。また、民進党系は河村氏には出身政党としてむしろ「製造物責任」からきちんと全うすべきではないか。

 

河村氏の庶民革命というのは、市民目線ということであり、また、朝日新聞が、名古屋が「行きたくない街」に選ばれたことを指摘し、魅力ある街作りを求めている。河村氏の天守閣の木造化構想はこのような文脈でも理解できる。小学校給食の無償化など次点候補の主張はバラマキともいえる内容だ。バラまいていてばかりでは、いつまでたっても名古屋にシンボリックは生まれない。また、河村氏が行った学校への常勤カウンセラーの配置など本質的に評価できる点もあった。

 

しかし、なぜ市議会との対立がここまで深まったのか。次点候補も所詮は侍であり組織運営の経験があるわけではなかった。河村氏は信認されたわけではあるが、うまく組織運営と地方自治の車の両輪である市議会との対立の緩和も必要ではないかと思われる。

商品先物取引業者の取引全体が違法とされた事例

被告従業員から勧誘を受けて、商品先物取引を行った原告が、被告に対して、被告従業員による不招請勧誘、適合性原則違反、説明義務違反等の行為により、上記取引は全体として違法であるとして、使用者責任に基づく損害賠償として、1455万円及び取引終了日から支払済みまで年5パーセントの遅延損害金の支払いを求められた事例でした。

 

東京地判平成29年1月26日は、原告の録音データから丁寧に事実認定をしたうえで本件取引に係る被告従業員らの勧誘行為、受託行為は、全体として不招請勧誘、適合性原則違反、説明義務違反、仕切り拒否等の違法による不法行為を構成するとして、使用者責任を認めました。

 

損害については預託金額から返還金額を控除した金額1323万円が認められ、従業員の違法性の程度が高いとして、原告の職歴経歴等を考慮しても過失相殺として、考慮すべき原告の過失は認められないとして、過失相殺を否定したものです。

 

原告の録音データ、つまり被告従業員とのやりとりが丁寧に事実認定された点が特筆されるものと思われます。

孤独が生んだ心の隙―韓国前大統領逮捕

日本経済新聞の取材によれば、本件は孤独が生んだ心の隙がある、という。

 

ゆずの歌詞にも「誰の心の中にも弱虫は存在していてそいつとどう向うかにいつもかかってんだ」

「そうやって痛みや優しさを知っていくんだ」というあるとおり、パク氏がこの歌をしっていれば心にしみることであろう。

 

情報収集から結論提出まで時間がどんどん短縮されて、誰もがニュースコメンテーターになってしまうと、世の中はぎすぎすした、ゆとりのないものになってしまう。

 

あるいは、とても危ういような気もする。

 

弁護士や経営者の背任などもうつ病を除けば孤独が生んだ心のすきまが理由だと思います。心と向かい合って、あるいは、求めに応じて綺麗に保ち、それをもって執務にあたれば、極端に家族を遠ざけるなども必要ないのではないか、と思います(この点は韓国の風習もありますが)。

 

大統領在任中、青瓦台に親族を呼ばない姿勢は、評価に値するのか。なにかそれも潔白をイメージさせるための極端な心のない正しくない考え方に思える。これが孤独となり、長年の友人に対する心の隙を生んだとみられている。

パククネ氏の逮捕と共謀罪(テロ等準備罪)―やはりおかしいのでは?

朝日新聞の取材によると,韓国の検察は3月31日早朝、前大統領の朴槿恵(パククネ)容疑者(65)を逮捕したという。サムスングループの事実上の経営トップでサムスン電子副会長の李在鎔(イジェヨン)被告(48)らから巨額の賄賂を受け取ったり、支援者のチェ・スンシル被告(60)に大統領府の機密文書を流出させたりした疑い。チェ被告の国政介入に端を発した一連の事件は、前大統領の逮捕に発展したというものだ。

私は、韓国の刑事法に詳しいわけではないが,事実上母法が似ていると建付けも似るものだ。逮捕は、犯罪事実が証明される必要があるのではなく、犯罪が成立するの証拠準備手続であるが、逃亡や証拠隠滅の恐れがあることに加えて,全くの逮捕事実の基礎が欠落していたら、どの国の刑事司法も逮捕は認めないだろうから,勾留裁判所は,一定の嫌疑があることを認めたわけである。

 

しかし,つい最近まで大統領だった人が13の罪で逮捕されるというのも、なんとも異常な話だ。大統領に権限が集中しているからだろうか。必ずしもそう思わない。

 

 

苟も日本でも、安倍首相夫人をめぐる疑惑が報道されている。要するに、安倍首相に近い保守系グループが,「安倍晋三記念小学校」を作るというもので,不思議と基準をクリアしていなかったのに,大阪府知事の鶴の一声で基準が緩和され,国有地は,基準価格の数億を下回る価格で買収でき、対象者は巨額のキャピタルゲインを得たことになる。

しかし,テロ等準備罪、つまり共謀罪ができれば、要するに大阪府の松井知事がいっていた「忖度」が共謀になる可能性があることをパク氏の逮捕は示したものといえる。現実にパク氏が漫画のようにサムスンからワイロを手でありがとね、ともらっている可能性は低い。現実に100万円を渡したという疑惑がもたれているのも昭恵氏であって,安倍首相ではない。松井氏は良い忖度と悪い忖度があるといって、一番悪いのは安倍首相と述べたが,結局,そういうことなのである。共謀というのは、犯罪共同遂行の合意があって,黙示でも良いというのが最高裁の決定であり,明示的に拳銃をもっていることを認識していなくても多分もっているだろうくらいの認識でも共謀を認めて有罪にしているのが日本の裁判所である。当然法的解釈は同じになるだろうから,今後,こういう明示的ではない「忖度」も結果が悪ければ共謀罪に問われ,テロの準備とされるのだろうか。パク氏の主要な罪名はほとんどが共謀共同正犯、つまり共謀罪だと思われるのだが,これではほとんどが結果論を問うものになってしまうのではないか。構成要件的しぼりが必要であり,刑法特有の形式要件を具体的に定める必要があるのではないか。

日本の刑法と刑訴法のバランスでは共謀罪は難しい

日本の刑法と刑訴法のバランスでは共謀罪は難しい。

 

朝日新聞は,3月22日も、共謀罪関連ニュースを多く報道しているのだが、先に当コラムが私的したように、朝日新聞も「日本の刑事法の原則は、犯罪の具体的な行動を伴う既遂や未遂を処罰することだ。その前の段階を処罰する予備罪などは一部の重い罪に限って設けてきた」とあるが、計画段階では危険性も乏しくまた実現可能性も低いのであるから、客観面も重視する日本の刑法は、比較的緩やかなものといえた。だから厳しくするという必要があるのだろうが。

 

これに対して日本の刑事訴訟法も、厳しい。よく逮捕・勾留は20日間と聴くかもしれないが、被疑者勾留の後は、質的に何も違わない被告人勾留に切り替わり2か月間裁判官による審査はない。もちろん起訴後は保釈などの整備もあるが余罪を捜査していると却下されるケースも多い。つまり、日本の刑訴法は、あまり国民に優しくなく厳しいものなのだ。

 

そこら辺が、共謀罪に無理のある点ではないかと思う。共謀罪は、いろいろいわれるが計画して、ガムテープをスーパーで買ったら「準備行為」が認められるとして、摘発することが可能になる。朝日新聞は、それはそれで問題というのだが、一般市民の感覚からすれば、悪い人が、資金や物品の手配をしたり、関係個所の下見をすれば、その時点で準備行為として何とかして欲しいという「安心」を求める声はあるだろう。

 

アメリカの刑訴法は、私はあまり詳しくないのだが、想像的にものをいうと、アメリカの刑訴法は映画などをみていても、保釈も認めらやすいし、被疑者勾留なる特別な勾留もない。逮捕はされるがすぐに自宅に帰れるし弁護士の弁護を受けられる、そういうイメージの中で共謀罪が存在したとしても、全体的なバランスは人身に対する制約が乏しい分とれていると思うのだ。

 

しかし、既に述べたように、日本は、刑法は緩やかで刑訴法は厳しいというバランスがあった。そして、米国では反対に刑法が厳しく、刑訴法は緩やかという面があったのではないかと思う。

 

別に極論すれば米国では話し合っただけで逮捕されても、すぐに釈放されるし弁護士の弁護を受けられるので、あまり問題はないのかもしれない。

しかし、「人質司法」と呼ばれた日本の刑訴法に共謀罪で刑法までも厳しくされると、自白や冤罪の温床になるのではないか。

 

監視社会も問題だとは思うが、そもそも人権擁護説や虚偽廃除説、そして裁判所の適正な事実認定の観点からも、有害ではないかと思う。

 

テロ等準備罪という名称に変える動きもあるが、郵便切手の偽造、無資格競馬、商標権の侵害、著作権の侵害、株式の超過発行も共謀罪の対象なのだが、これが、組織的犯罪集団にだけ適用される「テロ」準備罪なのだろうか。日本の治安維持法も、過去の冤罪も、刑法も刑訴法も、いずれもざるだったことから生じたのではないか。我が憲法が比較憲法上、信じられないくらい刑訴法の規定を置いているのはこのためである。

 

共謀罪を法律とするのであれば、被疑者勾留を廃止したり、少なくとも捜査目的を達成するための手持ち時間のような発想は考えを改め直し、刑訴法をより緩やかに改正しないと平仄がとれないと考える。

共謀罪―必要性はあるけれども過剰包摂だ。

朝日新聞の報道によれば、共謀罪について,政府・与党は4月中に法案の審議に入り、6月18日までの成立を目指すというが,国際関係論の立場からはオリンピックや我が国が積極的平和外交を繰り広げていることを考えると,日本国内でのテロの可能性も否定できず,「テロ準備罪」としての共謀罪は必要だ。しかし,今回,閣議決定されたものは,「いつかきた道」であり,「狙われたら誰でも逮捕」の悪法と言わざるを得ない。刑法体系を罪刑法定主義から大きく転換し,予備罪が限定的に理解されている我が国の刑法体系を大陸法から英米法に変えるものであり,根底から刑法を変えるのであればそもそも刑法典の改正で対応するべきものだと考える。

国際組織犯罪防止条約(TOC条約)の締結に必要だとして、政府は2003~05年に計3回、共謀罪法案を国会に提出したが,たしかに政府のいうこともそのとおりだ。しかし,TOC条約を締結するにあたっては,殺人や強盗など特に人身に対する罪等に限定するなど立法政策での限定が必要である。朝日新聞が,「一般の市民団体や労働組合が対象となる」「思想や内心を理由に処罰される」といった批判が相次ぐのも,かって,弁護士事務所で「謀議」が行われたと認定された例とも無縁ではない。

今回は20年の東京五輪のテロ対策を前面に出したが,もう少し刑法を理解している人間と国際関係論を理解している人間を配置するべきである。対象は,「テロリズム集団その他の組織的犯罪集団」と規定しているが,その内容をひもとくと,結局ふたり以上であれば良いわけで,犯罪の実行を計画した段階で,処罰の対象となるのであって,「準備行為」も何が「準備行為」になるのか、今の判例法理ではどんどん広がりを見せていくことは疑う余地もない。

通常の団体が組織的犯罪集団に「一変」した場合には対象になるとしている点が問題であり,これは,NHKでも,朝日新聞でも対象になることを端的に示し,「一変」したかを判断するのは捜査当局ということになる。時には政治的判断で,一般の団体を組織的犯罪集団と認定することもあり得よう。それと我が国が直面しているテロリズムとどの程度の因果関係があるのか疑問である。

今回は、公明党の絞り込み要請を受けて、676から対象となる犯罪の数も、過去の法案より減らした。TOC条約は、4年以上の懲役・禁錮の処罰を受ける「重大な犯罪」を計画した場合に罪を設けるよう締結国に求めており、過去の法案では対象犯罪は約620にのぼっていた。今回も原案では676の罪を挙げていたが、「テロの実行」「薬物」「人身に関する搾取」「その他資金源」「司法妨害」の5分類、計277罪とした。

しかし,277でもあまりにも多すぎる。テロリズムを司法的・刑法的に定義すると何なのか曖昧不明確であるが故に,その適用範囲の射程が広がると言わざるを得ない。

たしかに,金融犯罪なども許されるべきではないが,目に見えるテロに対する脅威にあがらうためであれば,まずは、人身に対する犯罪のみに限定するのが相当である。たしかに,テロの資金源など言い出せば射程は際限なく広がる桶屋が儲かればの世界だ。だが,刑法体系を根本的に覆しかねないことや最高裁のGPSの違法判決をみると,やはり立法それ自体にも憲法上の実体的デュープロセスが求められるのであって,政府・与党には「小さく生んで」不都合があれば、立法で対処することでも十分ではないかと考える。

ところで,いま,当職は,共謀共同正犯の弁護を担当しているが,検察官の証明をみていると、犯罪というトラックがあって,それを「このうちの中の誰かがやったらしい」という程度の証明にとどまることをよしとしているのではないか、と考えてしまった。狙われたら全部おしまいの1億総前科社会というのはおかしいのではないか。刑法の謙抑性の理念とも相容れないように思われる。もっとも,制定がなされたとしても,その運用はこうした批判も踏まえ,現状の刑法で対応できるものは、それでよいのではないか。準備罪などは、捜査当局があまり証拠がないが逮捕したい場合に利用されるいわば逮捕権の濫用ともいえる行為である。そうとなれば,手続的デュープロセスからも問題を抱えている、と言わざるを得ないと私は考える。

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