公務員は誰のために

公務員は誰のために―6月25日付の朝日新聞の問いである。

 

たしかに日本では都市部以外では少ないとはいえない公務員は誰のために働いているのか、当然だが、国民のため、公共の福祉のための全体の奉仕者でなければならない、というある意味のミッション・ステートメントがある。

 

政治家がかかげる公約があるように、公務員の公約は国民全体の利益のために働きますよというのがミッション・ステートメントなのである。

 

しかし、弁護士や行政書士のように官庁との調整をするエージェントをしていると、公務員はだれのために働いているのだろう、という朝日新聞の問いは意外と深いものがあると思う。

例えばある法律要件を満たさず行政許可が出ないとされたが、疎明資料が通達で決められているためであって、他の資料からでも法律要件を満たしていると審査請求人が主張した場合、原行政庁は、効率性の観点から資料を限定していると述べるものの、審査請求庁が要件は満たされているとして処分を取り消すこともある。国民の権利や営業の自由よりも、行政の効率性が大事なのである。

 

また、失踪した夫と住民票がいないため、課税証明書を提出できない場合、保育料をマックスで請求するのが愛知県瀬戸市であるが、失踪するような夫にロクな所得などあるはずもない。ルール自体も不合理であるし、しかもなぜ外行政庁から職権で課税証明書を出さないのか。結局、各行政庁と押し問答したものの「行政の効率性」の観点から課税証明書を得ることはできず、裁判所の手続を通して入手して、保育料は最低額となったがまともに考えて非常識だと思わないのか。

 

天皇陛下の叙勲。年齢を重ねると名誉欲を強まると心理学ではいわれる。それが叙勲である。新聞の叙勲を受けた者をみると調停委員のオンパレードである(もちろんそれまでのキャリアも考慮される。)非常勤の公務員の場合調停委員をやるのが早道だがそのためにあっ旋能力がない人間が、調停委員をやるという構図も辟易とする。私の祖父も叙勲をもらっているが、従軍と国鉄に長く務めたためであり、調停委員を務めたわけではないが彼が調停委員に向いているかというと、一方的に意見を押し付けるタイプであるので、向いていないと思う。公権力行使公務員にそういう人、それはその人の私益や業界団体から叙勲者を出したという利益もあるだろう。

朝日新聞の論旨は要するに、安倍首相のご意向が文部科学大臣に手続を促し、結果、弁護士からいわせれば法律による行政の原理、あるいは、法の支配が害されたということになる。

 

たしかに、公務員といえども、完全に公平、中立であることはできない。偏っている人もかなりいるのではないか。

 

しかしながら、報道ステーションの古館キャスターなどをあれだけ偏向している、と批判した公務員だ。さぞかし「公平」で「中立」なのであろうかというと、もはや客観的な問題ではなく、「公平」や「中立」であるということ自体に対する信頼が「忖度」というもので、大きく国民の信頼を失っていること自体が問題で、これでは政治不信ならぬ公務員不信にならざるを得ない。特に加計学園の問題視されている理事長は自民党員で職域支部長をしていたという報道もある。読売新聞の報道もあったが違法でもない行為でしかも事務次官を退任しているものの報道としては単なるプライバシーの侵害や名誉毀損になるのではないか、麻生元総理も毎日、「クラブ」や「バー」通いを指摘され辞任につながったのであるから、適法な範疇であれば同じ次元である。

 

特に、問題とされるのは、「特別権力関係」や「裁量」で説明される部分のあまりの大きさだ。つまり、公務員は法律による行政の原理や法の支配によって行動しているのではなく、実際は広範な裁量によって「ご意向を忖度する行政」や「人による支配」を行ってしまっているのではないか。

 

昔、名古屋家庭裁判所の判事で、現在は千葉地方裁判所判事の鈴木千恵子は、「こどもの幸せは裁判官が決めます」と述べたが、思い上がりも甚だしい。家事事件手続法は、声なき声に泣いてきたこどもたちを救済するため子の意向を織り込む立法趣旨もあり、広範な裁量は縛られるようになった。結局、彼女の別の事件も当代理人が後始末をしたが重要な事実を見落としており、家裁ではなく名古屋地方裁判所が当代理人の論旨を容れてこどもを救済した。

 

しかし、公務員全体が委縮しているのは、かつての小沢政治と似ている。小沢政治が徹底的に批判された理由は、小沢氏は何もいっていないのに、忖度するように求めるわけである。この結果、小沢氏本人の発信がないまま「小沢氏の意向」が独り歩きし、それが不合理なものもあるが真相はやぶの中である。もっとも、どこの世界にも権力者にすりよって、権力者はこういっているなどと目立ちたがるものがいるものだ。その反対に権力者に御注進に及び覚えめでたくなるのはいつの時代も変わらない。今般のプサン領事の更迭劇も、「私的な飲み会で日韓関係を考えれば対話のチャンネルを残すため領事はいてもよいのでは」という意見を述べただけで更迭されたわけである。たしかに本音をぶつけ合う社会はいきづらいが、いいたいことをいえない社会もいきづらい。

 

 

中には伝聞もあるだろうし、対応もヒステリックで、いつかの小沢政治に安倍政権は似てきた。外務省秘密漏えい事件のように、前川前文部科学事務次官が総理のご意向文書で行政が捻じ曲げられたと述べると、読売新聞が前川氏の「出会い喫茶」通いを大々的に報道するなど論点ずらしは権力者の得意技である。しかし、将棋や囲碁と同じく筋から外れたことを議論しても仕方ない。

 

朝日新聞の社説は内閣人事局の設置により、高級官僚600人の人事は総理次第になったことが大きいという。片山元総務大臣は、今の霞が関は物いえば唇寒しの状況と指摘している。

最近、弁護士会でも同じようなことを感じた。元来、弁護士会は弁護士自治を守っているくらいではあるが、実際は権力や名誉が大好きなように思えてならない。そのため、裁判所からの意向を忖度したような言動も珍しくない。なぜなら、弁護士会は、裁判所発の仕事も請け負っているからであり、裁判所に物言えば唇寒し、といった状況であるのではないか。弁護士会と裁判所は仕事を出し、請け負うという関係もあるので、相互のチェックが損なわれていることの弊害は大きい。そして、裁判所の意向を忖度する弁護士会が各弁護士についての監督権を持っているのも問題のように思われる。もはや、自治といっても第三者委員会など「公平」「中立」なものに弁護士会も忖度を排斥するために動くべきではないか。

 

結局、人間、最後は好き嫌いで決める。決めていると疑われても仕方がない面もある。変化に敏感で状況におうじて方向を決める弁護士もいれば、継続ばかりを重んじ裁判所からの忖度を旨に会務の安定性をさせようとする弁護士、その中間的な弁護士などの適切な役割分担によって決められる。

 

僭越ながら、東京第二弁護士会などは副委員長などは若手ばかりで勢いがありうらやましい。だが、名古屋の場合は主流派が裁判所からの忖度と卑下している面(官尊民卑)の発想が強すぎるのではないか。現在の弁護士会長は「女性会員に対する業務妨害をなくしたい」というが、男性会員は業務妨害を受けても良いのであろうか。どこの組織であっても公務者というのは全体の奉仕者でなければならず、池田桂子弁護士会長のように女性会員の奉仕者だけであればその仕事ぶりは会員全体でチェックする必要もあるだろう。

 

野党や健全な弁護士会によるチェックが行われなくなり、司法府も均衡と抑制が機能不全に陥っており、そのため公務員が中立性を失い、結果、国民の裁判を受ける権利が失われる弊害は極めて大きい。

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