人間はなかなか変われない~法廷弁護技術

先日、日弁連の裁判員の法廷技術研修があったので参加してきました。

印象としては、否認事件が大半を占める民事事件の尋問技術として参考になることが多いな、と感じました。何事も大袈裟であったので、重要なところも際立っていました。

法廷技術の本はたくさん出版されていますが、ワクワクと参加させていただきました。

民事事件は基本的には両方ともが市民ですから、検察対弁護のような組織力の違いもありません。

ですからプレゼン能力の違いが結論に影響が出やすいし、仮に出たとしても民事の金銭賠償の原則からすれば結論を間違えても刑事の冤罪ほどの被害が出るわけではない、と裁判官からも聴いたことがあるような気がします。

ですから、こうした技術にも効用はあるというわけです。

もっとも、裁判員という形からすると、もうこうした考え方はあてはまらないという考え方で固まってきた矢先の研修であり意外に思った点がありました。

裁判員制度が施行される前後、弁護士会ではある弁護士が中心となってその対策をしたのですが、その弁護士がアメリカに留学したことがあり、アメリカ流の派手なプレゼンテーションを刑事訴訟に取り入れた、ということがありました。もう3年くらい前のことです。

当時は画期的でしたが、3年が経過し弁護士も裁判所も、更には裁判員もこうしたプレゼンは冷ややかな目を向けるようになったと思います。私も市民に働き掛けるからとはいえ、「派手なら何でも良い」という発想はいかがなものかなと思います。

私見は結果的にこれらの取り組みは、弁護士に意識改革を迫るという意味では一定の意味がありました。ただし、我が国の刑事訴訟という性質上派手なプレゼンは適合せず、アメリカの物まねではなく自分たちのプラクティスで確立していく必要があるだろうと思いました。

先日の研修はその弁護士が未だ日弁連の裁判員本部の中心にいるようで、アメリカ留学のノスタルジーにひたって研修を構成していて、周りに現実的な意見を具申できる方もいないようです。私は、そうした苦言を担当者に伝えましたが、「私は○○弁護士のチームよ」と、何か宗教的な信仰心でもお持ちなようで異様な雰囲気でした。その後、刑事訴訟規則で禁止されている供述調書を示した尋問のレクチャーを始めて絶句しました。これは違法でありいくら宗教的な何かがあるにしてもこれは研修では許されないだろうと思いました。当たり前ですが、証人に対する不当な誘導になり真実を揺るがせにするから禁止されているのです。

昔、刑事訴訟法の田宮博士がアメリカに留学され、その当時、アメリカ最高裁がリベラルな判決を多く出したことに刺激を受けて、違法排除説などを唱えられました。しかし、その後、アメリカでは犯罪率が高まりリベラルな判決は保守派の判事によって見直されました。私見では、田宮博士はこの変化に対応できず、ついには学会の主流からも外れてしまうに至ったと評価しています。

私見としては、検察官が裁判員に説明するペーパーというのは、自民党の朝食会に官僚が1分レクチャーをする際にくばるものに似ているのでは、と思って、こうした検察官の側のプラクティスも研究をした成果が示されるのかと思って少し期待していました。

こうした技術は、依頼者のみなさんへの説明にもフィードバックできるからです。

しかし、人間はなかなか変われないようです。ノスタルジーもあるから仕方ないかもしれませんね。変われないのであれば、残念ながら人事異動をして担当者を変えた方が良いかもしれません。そこで研究が深まらないのであれば仕方ないことでしょう。国民が裁判に参与しているのはアメリカだけではありません。個人的には、アメリカに比べて控えめな、フランス、ドイツ、北欧、韓国といった国々などでの実態を研究すると、更に良くなるだろうと考えられます。

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