SNSでの炎上について考える。

最近、フェイスブック、ツイッター、ブログが盛んに利用されています。以前と違うのは、実名が原則であるインターネットメディアが多くなってきており、匿名性・閉鎖性が受けていたミクシィは退潮したように思います。

 

これらは、ウェブサイトと違い更新が容易である、という点が特徴であり、一瞬でユーザーに公開されます。その更新・投稿の容易さは、早いというメリットを生んでいますが、推敲が足りなかったり場違いであったりする投稿が散見されるように思います。

 

特に、企業の代表者名義のブログなどは、私的なものとして開設したつもりであっても、企業とは切り離してみられません。最近は従業員についても同じであるので、飲食店での閉店のニュースを聴くと、かなりリスクがあるように思います。

 

テレビのコメンテーターの意見は、公私混同している発信者のミスという受け止めが多いようですが、私は、2つの観点を感じます。

 

第一は、本来プライバシーの空間にパブリックが入り込んでいるということです。

例えば大学生のAさんがフェイスブックで自分の思うところを書き綴ったとしても、おそらく見てくれるのは友達だけだと思います。それくらい反応は悪いというのが一般的にやっている人の感覚ではないかな、と思います。

以前のブログは顕著でしたが、これはフェイスブックで匿名Aさんから山田太郎さんになっても同じことではないか、と思います。

ところが、その空間を全く関係のない人がいわば「のぞきみる」ことができるようになったと捉え直すことができるように思います。ですから、いたずら行為をした人を擁護するわけではないですが、本来内輪の中に、「外」が持ち込まれたというところに問題があるだろうと思います。

 

コメンテーターがいうように、全世界の人が見ていると思って発信しろ、というのは、間違いだろうと思います。それほど、全世界の人は山田太郎さんのブログには関心がないと思います。

同時期にビックデータの売買が報道されるようになったのは、同じ観点でとらえられるだろうと思います。JR東日本が乗客の個人情報を抽象化して特定できないようにして、企業に販売するというものです。おおむねマーケティングのデータとして使う目的だ、と思います。

しかし、そもそもプライバシーを扱うとは思えない鉄道会社が乗客の「男性・22歳・埼玉在住・会社員」みたいな形でデータが売られるのですが、いつかの個人名簿の売買と何が異なるのか、といわれると、「ビッグ」である点が違うということになるのでしょうか。フランスではGoogleに対してこうしたビッグデータのつなぎあわせでプライバシーが侵害されると規定を見直すよう勧告をしましたが、Googleはこれを拒否しました。ヨーロッパではナチスの経験からパブリックによる個人情報の管理に抵抗感が強いことも背景にありそうです。

 

本来は、プライバシーとして扱われることが、公に開かれてしまうというところが問題なのだろうと思います。そう考えると、リテラシーが低い人はミクシィの方が安全ということになります。なので、もう少しプライバシーに配慮したツールとして「日本的」なアレンジが必要なのではないか、と感じます。

 

二番目は日本人と欧米人の考え方の違いです。

 

欧米人はキリスト教に代表されるように絶対的な神というものがいますので、神と自分が向かい合うという関係にいます。そして、人間は生まれながら罪を背負っており贖罪のために清く生きるというのが趣旨ではないか、と思います。そうすると、絶対的な自分というものを発信するので、「他人からどう見られるか」「他人からどう評価されるか」ということについても、自分のオピニオンの方が優先される、と思います。

 

なので、ツイッターでもフェイスブックでも、実名であっても、絶対的な自分はこうである、という発想があるから、社会的なつながりとしてのツールとして適当なのだ、と思います。

 

ところが、日本は「空気を読む」という文化があります。八百万の神といわれるくらい神様も多く、価値は相対的な文化です。また、韓国の新聞などを読むと、「日本がこうなった」「あの国がうらやましい」という記事が羅列されています。私はこういう記事をみると、他者との比較が重要と思うのが東アジアでは一般的なのだなあ、と思います。

 

つまり、欧米人というのは、神というのが自分の向かいにいるので、ある意味では自制を働くことになるし、絶対的な自分に基づいた行動であれば仕方がありませんね、それはモラルの問題ではなく法の適用というレベルで考えましょうということになります。そして、法を適用するほどでもない行為というのはあまり取り上げられないという結果になるのではないかと推測します。欧米は人種の坩堝であり、エビデンスを示さないと誰も納得しない、というような社会です。ですから、軽微なことで、いちゃもんをつけるというのは論争になります。ニューヨークで、下着が見えるように歩く若者のファッションに対して、市長が「誰も他人のパンツなんてみたくない」と発言したことに代表されるかな、と思います。

 

これに対して、日本人は、多かれ少なかれグループの中に所属して生きているところ、行動規範というのは、自分の所属しているグループとの関係で相対的に決まる脆い価値観で生きている、というのが普通ではないかと思います。なので、自分が所属しているグループが、カウンターカルチャー的で法令遵守はあまり厳格に考えないという場合、ついついこういう軽率な行動を招きがちなのではないかと思います。

 

とはいうものの、もともとは、いたずらをするということは、あそび心からでしょうから、そういうところからクリエイティブは生まれるので、何ともまとめにくいような気がします。しかし、行動規範が、相対的で脆いから軽率な行動を招きやすい、というのは欧米社会との対比ではあり得るのではないか、と考えます。

 

そういう意味では、日本で、フェイスブックやツイッターというのが、ソーシャル・ネットワークとして適切なのか、分かりにくくなっていると思います。最近、裁判所でもSNSの取扱についてなる文書が配布され、事実上取り扱わないようにというような趣旨であったということを聴きました。いくつかおもしろいブログもあったのですが閉鎖されてしまいました。まあ、男性が書くブログなどはどうしても仕事から得た雑感を交えながら書く、というのが普通じゃないか、と思いますので、仕事に関連した内容が含まれてしまうことは仕方がない面もあります。

 

価値観が相対的で、あいまいであると境界性もぼけやすいのですが、「全面禁止」とするとプラスの面も活かせません。したがって、企業が従業員に指導する場合であっても、何が良くて何が良くないのか、ありていにいれば「予測可能性」が立つように要件明確化をはかるべきじゃないかと考えています。

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