加藤新太郎元裁判官の講演会

裁判官には個性があって、根拠のある自信がある意味とそうでない自信があるということなそうです。

 

そこで、ウマが合う裁判官は仲が良いそうです。

 

裁判官は合意形成に重きを置く人と司法判断をすれば十分と割り切っている裁判官もいる、との指摘がありました。

それぞれのストライクゾーンがあります。最近は、和解の試みを全くしていないというのは、高裁からみているとどうかと思うところがあるとお話しされました。他方、和解なんかしているよりかは判決を書いた方が早いという人もいるとのことで、高裁では和解の勧試をしていない事案についてはおかしいというのが多数派とのことです。過払い事件と裁判員があったために「荒い審理」をすることが定着してしまったとのことでした。また、ルンバール事件では高度の蓋然性の判例であり、証明度8割などといわれますが、鑑定書は複数あり原告に沿うものは1通しかなかったのであり、主論として8割というのは両論あり得るところであると考えられるとの指摘がありました。証明度というのはポン、と上がるが確信がないといけないともいっているともあって、私は確信というのは中身はなく高度の蓋然性というものは、訴訟法の認定論から構築すべきと論じています。証明度も内質、当該要証事実との関係でOKと落とし込まれるというのは正しく、ルンバールに縛られる必要はないという意見は同感との見解を示されました。

 

注意義務違反の擬律のときに複数あり得る場合、新たな過失が見えてきた場合にそれぞれを別箇の訴訟物と判断をされるものであるのか、この点、同一動作の問題であって、時間軸が異なる場合については、これは切実な問題ですが過失の内容ごとに分断して考えるということはしていないということであって、過失を出すにしても、行為を出しておかなければならないとの指摘がありました。その意味では一審の争点整理で、過失をしぼるかどうかが非常に重要ということになるということです。

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