日曜に想うー消えゆく公平中立の役所

平成27年10月18日付朝日新聞に星浩執筆の「消えゆく公平中立の役所」が掲載された。

 

星によれば、ある50代半ばの公務員が「このところ、役所の公平中立はどうなるのか考えることが多いです」といわれた。

 

その理由は、税制再建路線とはいえない安倍政権につき名目3パーセントの成長が実現できるという原案を内閣府が作った。

しかし、名目3パーセントの達成は、最初から無理とみんなわかっている話と述べたようで、「かつて経済企画庁で、エコノミストが公平中立の数字を出していた時代ならあり得ない」と話し、結果的に、安倍首相の顔色をうかがって無理な数字を並べたもの、と概ね思っているようだ、と論じている。

 

星は、片山慶応大教授を引用し、「長い目で見れば、組織の信頼性を失う。法の支配の法治ではなく、人の支配の人治になってしまう。」

 

星は、カナダが上級庁に法律の解釈を問い合わせる「照会制度」が議論されていることを指摘している。これは、高裁や最高裁に問い合わせるのと似ているだろう。

 

これに対して、日本でも、今年最も印象に残ったのは、ある女性裁判官とある男性裁判官だ。ひとりは、「こどもの幸せは裁判所が決めます」と発言した。人治の象徴である。

結局、星が紹介した50代半ばの公務員と同じく、体裁は綺麗にできているが中身が名目3パーセントなんてとても無理、というのも、「国民の幸せは安倍首相が決めます」ということになると論じることに結びつきかねない。仮に、政治家や省庁の公権力行使公務員がこのような発言をした場合、進退問題に直結することは避けられないだろう。しかし、体裁だけ綺麗にできているが中身が詐欺的であれば、それは騙しているのと一緒ではないだろうか。もちろん一方当事者の利益代表を語るのであればそれでいい。しかし、50代半ばの幹部は、もともと役所は、「公平中立」のはずなのに、どうして誰かの利益代表になっているのか、という点に疑問を感じているのではないかと考えられる。

 

他方、裁判官は職権が独立しているため、独りよがり、つまり独善的な裁判官が生まれやすい。この点、検察庁は、検察官組織一体の原則があるため職権は独立していても組織であることが強調されているので、独善的と断じられるほどの検事は、一部テレビで取り上げられるようなケースを除いてはあり得ない。ある男性裁判官は弁護士会が裁判官を評価することは名誉棄損となり、それを非公開の手続で引用することが名誉棄損になるおそれがある恐れがあるという。

 

しかしながら、この男性裁判官は間違っている。意見の表明は公正論評の法理ということがあります。公正論評の法理の理論によれば、結果として公務員として社会的評価が低下しても名誉棄損にはならないものと考えられています。ここまで表現の自由の法理が、裁判官によって公然と破られるのも、「公平中立」の自覚がないからではないでしょうか。

公務員に関する論評は公正論評であり、公益目的に出たものであることが擬制され、真実性の証明、あるいは真実と信じるに相当な理由があれば名誉棄損にはならない。アメリカではこのような裁判官が登場することを防止するため、「現実的悪意の法理」を採用し、公人に関する表現行為については名誉棄損が成立する範囲は狭くなると理論的に制限されています。

後者の男性裁判官は石原慎太郎東京都知事から「相当変な裁判官」(当時の朝日新聞報道による)と酷評され、男性裁判官の起案した異色の判決は概ね東京高等裁判所で破棄されている。財務省幹部からも「国敗れて(行政)三部あり)」と酷評されていた。決定文によると、原審裁判官の訴訟指揮の不当性に触れると「名誉棄損になる疑い」があるというが、刑法や民事不法行為法の基本を知っているのだろうか。いわゆるフェアコメントの範囲内で名誉棄損が成立可能性は一ミリもありません。

 

星が論じるように、公平中立の役所が消えゆく中で、「誰か」の利益を代表する役所、つまり不公平で肩入れした役所が増えてくるという論理的帰結になる。そうなると、本来「公平中立」同士が争うような場面を増えていくのだろうかと考えていく。特に、家裁や刑事の無罪の判決文などは、あまり参考になるものがないといわれ、自分で思考しながらかっては書かれていたというが、こうして思考しながら書いてくれれば良いのだろうが、星がいうように、実際は上級庁の顔色をうかがい「あり得ない内容」を」綺麗に原案にまとめあげる、これが公権力行使、すなわち、ある目的の達成のため国民の権利義務を形成・制限するに処分として利用される場合、経済企画庁と裁判所では、行使する権力の「暴力装置」としての度合いが異なる。

 

裁判所は公平に裁判をする仕組みとしてカナダが導入しているように、「照会制度」「判断形成過程の可視化」などいつも当会が主張していることではあるだろうが、考えていただきたいものである。また、裁判所に苦情を申し立てる仕組みがない、というのも問題が大きく、直近上級司法機関に、懲戒請求をするように求めることができる、などはあってもいいのではないか。公務員個人に対する賠償も全く認められないものではなく、国家賠償請求が認められ、また名誉棄損がある場合には別途公務員は個人責任を負うという昭和30年の最高裁判例があります。

 

しかし、星や片山が論ずるように、長い目でみれば人治は組織の信頼性を失わせることを考え、かつ、公権力を直接行使する公務員は高給であることに照らすと、昭和30年判例の個人責任を認める後段説示部分やあるいは立法において、個人責任を認める方向性にしていかなければ、「失われた公平中立の役所の閉鎖性」ほど怖いものはないのではないか。

 

そうすると、公平中立を重んじる立場からは、公正論評をしたとしても、公正中立でない役所からの批判が事実上出て、「自由にものをいえない社会」こそ、僕等の望まない社会ではないだろうか。

ページの先頭へ
menu