司法積極主義と司法消極主義

先般のアメリカ連邦最高裁が、同性婚を憲法上の権利を認めたことは、その判決文をみると保守派対リベラルの対立なのだが、歴史は違う形で繰り返しているようだ。

 

アメリカでは、司法積極主義と司法消極主義の対立が昔からあった。要するに難しい問題は、立法府や行政府に任せて自分たちは「評論家」に徹しようというわけだ。

昔、少年部の裁判官から「自分は評論家だ。だが評論家ばかり増えても仕方がない」といわれたことがあったが、その裁判官は少なくともそういう司法消極主義に身を委ねているときであった。

 

実は、アメリカの憲法訴訟論では、憲法問題を連邦最高裁が判断するべきではない、という憲法判断回避のルールが存在している。いわゆるブランダイス・ルールが典型的である。

ブランダイス判事の補足意見は「裁判所は憲法問題が提起されても、もし事件を処理することができる他の理由が存在する場合には、その憲法問題に判断を下さない」というわけだ。

 

実は、同性婚に関する反対意見においても同じような意見が述べられた。

 

「憲法には同性婚をする権利について明記されていないが、多数意見は修正第14条のデュー・プロセス条項の「自由」がこの権利があるという。合衆国はすべての人間が自由への不可侵な権利をもつという理念のもとで創られたが、自由は多義的な意味をもつ概念でもある。伝統的リベラル派にとっては、自由は現在政府によって規制される経済的な権利を含むかもしれない。社会民主主義者にとっては、それは各種の政府による給付を受ける権利を含むかもしれない。本日の多数意見にとっては、ポストモダンのようだ。選挙によって選ばれていない5人の最高裁判事が、みずからの自由に関する見解をすべてのアメリカ国民に押し付けることができないよう、最高裁判例ではデュー・ プロセス条項の「自由」が「この国の歴史と伝統に深く根ざした」権利のみを保障すると理解すべき、とされている。そして、同性婚の権利がこのような歴史と伝統に深く根ざした権利とまではいえない」

そもそも、今回の反対意見では、では憲法に記載のないプライバシー権や良好な環境を享受できる権利なども「歴史と伝統に深く根差した」といえるか、あまりに原状変更に否定的であることが分かります。

実は、日本も原発訴訟をめぐって司法積極主義と司法消極主義が分かれているというか、司法消極主義が優勢といえるでしょう。

 

近時は仮処分を通じて、福井地裁と鹿児島地裁の見解が対立しているようです。

 

しかしながら、アメリカ連邦最高裁は、このように司法の役割を論じます。たしかに違憲審査制の憲法保障機能を害するところが出てくるでしょう。

私見においても、裁判所は事件の重大性や違憲性の程度、及ぼす影響、事件で問題にされている権利の性質をベースラインに、十分理由がある場合は、憲法判断に踏み切ることが妥当だ、と考えられます。

 

連邦最高裁は、「不正義というのはえてして、同時代に生きる人間にはみえないことがある。権利章典と修正第14条を起草した先人たちは、自分たちがすべての面において「自由(liberty)」が意味することを理解しているとは考えず、将来の世代に対して、時代の変化によって変わりうる「自由(liberty)」を憲法上の権利として保障できる仕組みを残した。新たな洞察によって、憲法上の中核的な保障とその時代の法体系の間に齟齬があることが明らかになったときには、自由が憲法上の権利として保障されなければんらない。」との立場です。

日本の最高裁では、事実認定が問題であるとして、一部無罪を言い渡すべきと主張した判事2名と最高裁判所は法令解釈をする場とする判事3名が対立し、2対3で上告棄却となりました。

しかし、刑事裁判の場合は、無辜の不処罰という大義名分があるはずで、実際、最高裁が冤罪を見抜いて破棄差し戻した裁判も過去にありました。

 

しかし、上記連邦最高裁の意見には、少し思うものがあります。たしかにロールズがいうように人間は、不正義を感じるその回復の過程に正義を感じる、と論じます。そして、時代によって、みなが感じ得る不正義は異なるはずです。特に代表民主制の過程で代表者を送り込むことができない少数派グループなどは、彼らが感じる不正義を得てして多くの多数派は感じ取ることができないと考えられます。

 

さて、原発問題については、えてしてそこでの不正義は原発の傍に住まない人には見えにくい。それを不正義とみて是正する必要があるのか、国民的評価も割れるように思われます。

 

非嫡出子違憲訴訟で3対2で合憲とされた裁判例で泉判事は、「嫡出でない子が被る平等原則,個人としての尊重,個人の尊厳という憲法理念にかかわる犠牲は重大であり,本件規定にこの犠牲を正当化する程の強い合理性を見いだすことは困難である。本件規定は,憲法14条1項に違反するといわざるを得ない。本件が提起するような問題は,立法作用によって解決されることが望ましいことはいうまでもない。しかし,多数決原理の民主制の過程において,本件のような少数グループは代表を得ることが困難な立場にあり,司法による救済が求められていると考える。」と司法積極主義の意義を説いているものと考えられます。

 

原発訴訟については、どのように考えるべきなのか、なやましいところといえるでしょうが、司法消極説が多数を占めていることで、「合憲評論家」になるのでしょうか。

福井地裁の大飯原発訴訟でみられる判決文は解釈の指針、ベースラインまで示しています。

 

「原子力発電所の稼働は、法的には電気を生み出すための一手段たる経済活動の自由に属するものであって、憲法上は人格権の中核部分よりも劣位に置かれるべきものである」「人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり、その議論の当否を判断すること自体、法的には許されないことであると考えている。たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている」と指摘しています。

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