岡口基一判事、懲戒請求、裁判官の市民的自由を侵害しないよう

東京高裁が、岡口基一裁判官を裁判官分限法に基づき、最高裁大法廷に懲戒の申立てをしたとの報道がなされている。

 

岡口裁判官の主な懲戒事由については、犬の返還訴訟において、勝訴した原告について犬を置き去りにしたのではないか、との趣旨の投稿をツイッターにしたことが理由だという。

 

裁判官は、憲法上職権上独立が保障されているが、我が国では犬は「物」として扱われている。そうであれば、物の引渡し請求について、置いていったのではないかとの趣旨を記載をしたにすぎないともいえる。これを論拠に懲戒の申立てというのは、裁判官の市民的活動や表現の自由を著しく侵害するものといえる。

 

著名な事件に盗聴法に関する寺西判事補事件があるが、今回は特定の政治的テーマではなく、物の返還請求の心情を傷付けたことが理由なのだという。寺西判事補事件は、裁判官の政治的自由や政治的表現の自由が問われるものであるが、岡口裁判官のツイッター上の短文は人によってとらえ方は様々としかいいようがない。通常、子の引渡し等の裁判で心ない言動をする裁判官がいても、何ら問題にされず総務課に苦情がいっても当該裁判官に対して事情を伝えることすらないだろう。

 

ところがである。今回は、一部メディアの報道によれば、岡口裁判官につき犬の所有者が東京高裁に抗議し、東京高裁が岡口裁判官に聴いたところ「軽卒で申し訳ない。弁解のしようがない。投稿のしようがない」と述べたというが、本当だろうか。刑事事件で被疑者の無罪推定を無視し、犯人視する警察のリークを報道する反省が全く活かされておらず、言論の自由そのものをつかさどる報道機関が表現の自由を行使したものを陥れるような報道をすることは嘆かわしい。

 

そもそも、日本の裁判官は、特殊なコミュニティで、官舎暮らし、職場まで一緒という特異な環境で、市民的活動に参加するものは、ほとんどいない。ツイッターを実名で行っている裁判官は、岡口基一裁判官くらいであった。ツイッター社のアカウントの凍結の経緯も不透明である。ツイッターにはそれこそ罵詈雑言を並べたアカウントも多数存在するなか、主に法的事象や社会的事象への投稿が中心の岡口裁判官の短文の投稿が、裁判官として分限に値するものかといえば職務遂行自体に関する投稿は一切みられず、法的に注目度の高いトピックの紹介をするなどアンテナの高さの方が、法曹関係者の間では評価されていたといえる。

 

岡口基一裁判官は主に金融商品や証券関係の裁判を担当する裁判官で、特段職務遂行確保の観点から問題は認められない。岡口氏は、若い裁判官にこれくらい自由でいいのだよ、ということを伝えたくてツイッターをやっていたという趣旨を著書で述べたことがある。一般的に事象に対してコメントすることもできなければ、裁判官はツイッターをすることができず、リツイートくらいしかできないことになりかねない。問題は、裁判官として公平性に疑念を抱かせる程度のものかという観点から考えられなければならないはずである。たしかに、岡口基一裁判官のツイッターには、政治的イシューや裁判に対するコメントもあり一定の思想性はあるが、所詮ツイッターの類にすぎない。先般、ゲイやレズビアンなどLGBTを生産性がないと断じた自民党議員につき、二階自民党幹事長は、「自民党は右から左まで色々な人が集まっている。それぞれの価値観や人生観はある」と述べた。当該自民党議員の言動には到底賛同できず、むしろこどものいない家庭一般等を侮蔑する論文といえるが、こうしたものを投稿しても国会議員は何ら懲罰にかけられるということはない。

最高裁のグーグル判決によって、名誉毀損的表現の削除が容易になる一方で、前科などの記事の削除は今後相当に難しくなった。まさにグーグル事件でいうならば、表現の自由に優越するほどに裁判官の公平性を失わせる投稿であることが明らかでない限り、分限をすることは許されないといえる。

岡口氏は、学際家としても知られ、裁判の実務本である要件事実マニュアルは実務家の必携書となっているし、近時に出版された本も多くの法曹関係者に購入された。かつての伊藤塾でも起きたことであるが、単純に書籍の出版など、いわば学者的能力が優れていることに対する嫉妬から、些末な苦情で最高裁大法廷に判断を求めるというのは、内輪揉めのようにみえ、かえって東京高裁の懐の狭さを示す結果とみっともなさを示す結果になってしまった。

いうまでもなく、岡口氏の投稿が、分限に値するものとはいえず、しかも非訟事件手続法の規定が適用されるいわば民事調停と同じであるにもかかわらず、その内容が広くメディアに暴露されるということ自体、みっともないとしかいいようがない。最高裁は、犬の所有者云々という投稿が、表現の自由に優越するほどに裁判官の公平性を失わせる投稿であることが明らかでないことを示し、分限の申立てを棄却しなければならない。これ以上、裁判官が閉鎖的になると、社会常識から外れる人物が出てくることを多くの国民が懸念する。先般も任期満了退官した弁護士、つまり事実上裁判官を罷免されたものがいたが、社会では通用するには難しいと思われる振る舞いをしていた。坊主につける薬はない、といわれるが、岡口氏よりも問題にすべき者は多いように思われる。そして、裁判官の市民的自由を侵害すると、瀬木元裁判官が暴露した精神的幽閉を招くことになるだろう。近時、大手法律事務所は、瀬木氏の著作を司法修習生に配り、いかに裁判官に市民的自由がなく任官することを止めた方が良いと力説しているといわれる。裁判官の市民的自由がなくなれば、社会から切り離された特殊なカルト集団が裁判をしている、そうとらえられる不気味さも出てくるだろう。特に、ドイツを筆頭に、諸外国の裁判官の市民的活動と比べて、日本の裁判官がそれが大幅に制約されている中、さらにそれを制約するということになるとなると、憲法21条にも違反するのではないか。

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