論じることの原点を心に刻むとき

論じるとき、何を感じるのだろうか。

 

最近はヤフーの選挙予測が完璧のように帰納的アプローチが流行っているのかもしれない。

 

しかし、大事なことは、自身の内省を向かい合い、その心に忠実に表現することだと思う。

 

同じようなことは、多くの経営者が言葉として残している。

 

しかし、最近は、法曹三者に対する批判は強い。

 

弁護士は、もともとのような気がするが、「99.9―刑事専門弁護士」では、むしろ検事が冤罪を出世のために維持する姿がみられた。また、裁判官については取材が遠慮されている様子もあるが、かえってコメントしないからこそ批判が大きくなることもあるだろう。映画では、「ターミナル」という不倫をした裁判官が、旭川支部長から東京高裁判事になる際、不貞をして、そのあと贖罪のため「国選弁護人」だけをやり続けたというのだが、こうした「国選弁護人」を下に見た上から目線は困ったものだ。弁護も弁護人としては不適切であり、あれではただの裁判官である。だが、映画自体はヒューマニティにあふれるものであり、やはりJR釧路駅は人生の出発的という意味で、フランスのアルルとよく似ている。

 

法曹三者として、論じることに説得力を持って受け止めてもらうには、やはり事実や異論に謙虚になるという原点を改めて心に刻まないといけない。ときに、はじめて独立したり、部総括になったり、副会長になったり、あるいはシェフドキュイジーヌに昇格したり、3が付くときは仏教では慢心が生じるといわれる。

 

そうしたことに有意注意で取り組んで、各方向性から、重要なイシューについて、私たちは、いち弁護士だけではなく論評者としても機能していきたいと思います。もっとも、私たちは、朝日新聞のような大企業ではありません。しかし、批判があれば謙虚に耳を傾ける姿勢がなければ驕り高ぶった姿勢は、多くの人の共感は得られません。そのうえで、論じることを論じることは、その職責だと思います。

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