パリでの労働デモと表現の自由の法理

最近、弁護士会が表現の自由を制約すべきだ、という論陣を張って驚くことがある。弁護士会は強制加入団体で、国家権力とよく似ているのだが、政治的中立性もあまり図られておらず、その運営には不満も出ている。特に大阪は厳しい意見も多い。

 

表現の自由は、基本的には事前規制禁止の法理があって、事後抑制とするべきであって、それも表現内容に着目するものは許されない。

 

たしかに、名誉棄損であるとか、プライバシー侵害は許されないだろう。しかし、弁護士会がいっているのは、ヘイトスピーチなどだが、弁護士会主催のデモ行進自体が「ヘイトスピーチ」と認定されても別におかしくはない。パリではしばしば、おそろしい、クレイジーだ、という労働デモが起きることもあるし、法律の制定に反対するデモが起きる。私も襲われそうになったが、中止しなさい、なんて声は基本的にない。なぜなら、なんでも多数決主義に対抗するためには、対抗言論しかないからである。それが表現の自由の法理であって、自由の担い手が死守しなければならないことだろう。その弁護士会が表現の自由を規制しようという法案に賛成の意見を出していることからすると、今後は、揺り返しが危惧される。

 

表現の自由は民主制のプロセスのそのものであり、表現には汚い裏工作より対抗言論(カウンタースピーチ)で対抗するべきであって、そのうち思想の自由市場において淘汰が起こるというのがベースとなる発想である。

 

特に、最近は、政治家もそうだが、公権力行使等公務員に対する公正論評すら許されない雰囲気が漂っている。そして、それを過度に忖度する側も極めて問題だ。忍耐と寛容がない世界からは何も生まれない。

 

誰もが、舛添都知事のように辞任確実になった人には徹底的に批判をするが、それ以外、特に大きな権力者に対しては、言論で対抗するのは、基本中の基本であろう。読売新聞では、棟居氏という憲法学者の論考が本日掲載されたが、裁判官の身分保障が厚すぎ、憲法改正をすべきとの論旨だったように思われる。また、裁判官の個人責任を追及すべきだ、との論考も朝日新聞に掲載された。NHKのクローズアップ現代の国谷キャスター、ニュース23の岸井キャスター、報道ステーションの古館キャスターの降板は、突然であった。過去、アメリカもNBCのトム・ブロッコ―、ABCのダン・ラザーなど、厳しいジャーナリストはのきなみ降板を強いられ、現在は、モデルやアナウンサーが原稿をそのまま読み上げるだけのニュース番組が多く似たり寄ったりのものが多い。

 

フジテレビのユアタイムのモデルのキャスターだが、朝日新聞の取材に対して、姿勢は一番年齢は低いものの一番しっかりしており、放送法のフェアネスドクトリンはアメリカでは廃止されており、圧力に他ならないという趣旨を述べ、現在の各局の報道の在り方を批判したことだった。星キャスターなどと並んで、信念を持った報道やニュースをしているのがモデルさんでは、我が国のジャーナリストの脆さも目立ってきた。これは、そのまま民主主義プロセス、ひいては人間の尊厳の尊重の保障の脆さでもある。

 

キャスターの名前は忘れてしまったが、「NNNきょうの出来事」という日本テレビの番組があった。櫻井さんだったか、井田さんだったか。とにかく、トップニュースは、日本テレビの社員が逮捕されたニュース、次に巨人軍の不祥事、更に三番目はスポンサーである某会社の不祥事をとりあげたが、特にコメントはないにしても、報道の矜持は感じる。報道に自社は関係ない、スポンサーも関係ない。都合が悪いことを後回しにせず、堂々とトップストーリーで報道するのが「NNNきょうの出来事」のすごいところだったが、今は、ストレートニュース自体がなくなってしまったので、今は昔、という感じである。

 

最近、BBCワールドやNHKワールドをみることがあるが、あまりに日本国内と同じニュースでも使われているマテリアルが違うので、驚くことがある。空気を読んでいるともいえるし、炎上を防止しようともしているともいえるし、情報を隠しているともいえると思う。かつて小沢一郎氏が民主党幹事長だったときのような忖度政治が世の中を一番悪くするかもしれない。いったい誰の思惑を忖度しているのか、私たちはきちんと見抜く技術も必要だと思う。

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